スポンサーリンク

悪は存在しないはつまらないゴミ映画!

※当サイトではアフィリエイトプログラムを利用して商品を紹介しています
※当サイトではアフィリエイトプログラムを利用して商品を紹介しています
この記事は 約5 分で読めます。

芸術家ぶった日本語が分からない外国人が見て賞賛しておけばいい粗大ごみ。この映画のラストシーンの解釈を優越感とともに悦に浸りながらしている奴らに不幸が訪れることを心から祈りたくなる映画です。1点

スポンサーリンク

悪は存在しないのあらすじ

妻を亡くした巧は8歳の娘の花とともに山村集落・水挽町で暮らしている。彼は薪を割り、煙草を吸い、森の小川から水を汲むような静かな生活を送っている。時折、山奥から鹿猟の銃声が聞こえてくる。

ある日の地域会議で、住民たちはグランピング施設の開発提案を突きつけられる。開発会社の代表である高橋と黛がプロジェクトを紹介するが、施設が村の繊細な水資源に悪影響を及ぼすとして村人たちは猛反対した。それもそのはず開発会社の本業は芸能事務所で、最初からコロナの補助金目当てで事業をしようとしているのが見え見えだったからだ。

高橋と黛は住民たちの話を聞くうちに態度を改めるが、会議の結果を上司に報告すると拒絶される。上司は、浄化槽システムを変えないよう指示し、代わりに巧に贈り物を渡し、キャンプの管理人として雇うよう命じる。高橋と黛は村に戻る途中、オンラインデートの経験や仕事への失望について話し合う。その後、彼らは巧と一緒に薪を割り、昼食を共にする。

高橋は村に残り、巧からできる限り多くを学ぶことを決意する。ドライブ中、巧は、野生の鹿は通常攻撃的ではないが、腸を撃たれた鹿やその親は、逃げられない場合に攻撃することがあると話す。その時、また遠くから銃声が聞こえる。その後、巧の娘の花が行方不明となり、村の人々は夜通し捜索を行う。巧と高橋は森の中を探し続け、やがて開けた草原にたどり着く。そこで花が鹿と子鹿に近づこうとしていたのだった。

悪は存在しないのキャスト

  • 大美賀均
  • 西川玲
  • 小坂竜士
  • 渋谷采郁
  • 菊池葉月
  • 三浦博之

悪は存在しないの評価と感想

寝ても覚めても」や「ドライブ・マイ・カー」でお馴染みの日本一寒い映画を作ることで知られる濱口竜介監督による人間ドラマ。第80回ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞受賞作品です。

ドライブ・マイ・カー」もそうだったけど、まあつまらないし、演技がひどいです。「できるだけ棒読みで読んでください」って演技指導をしてるとしか考えられないぐらい、キャストがもれなくセリフをただ読んでるだけのパフォーマンスをしていてびっくりさせられました。

まず、ずっと低い位置から木々を撮ってるだけのオープニングシーンが長すぎて、それだけで家で鑑賞する人はほぼ確実に携帯をいじり始めるでしょう。冗談抜きで木を延々と5分間見せられるんですよ。地獄かよ。

いやいや、あれは自然があなたを見てるっていう演出なんだよとか言ってくる奴がいたら往復ビンタをかましておいてください。自然を擬人化すんなよ、ボケ。見てねえよ、お前のことなんて。

さて、さんざん木々を見せた後は主人公の巧が山でどれだけのんびり生活しているかをゆっくり映し出していくんですが、そこにも映像的な美しさは皆無です。あんな人里離れたところで原始的な生活しているのにみんな変にオシャレだし、服装が綺麗すぎて見る気が失せました。昨日アウトドアショップで買ってきたみたいな衣服を身に着けてるのが笑えます。 東出昌大の山小屋生活かよ。

それとBGMとして流れる絶望ミュージックみたいなのが耳障りで映像も演技もダメなのに選曲までセンスないのかよ。

物語が本題に入っていくのは、グランピング施設開発を通じて自然をぶっ壊しに来た芸能事務所と自然大好き村人たちが対立するくだりからです。自然と地域の共存やその土地へのリスペクトを重んじる地元民たちと、金儲け第一主義の都会の人々たちの双方の思惑とエゴと人間性をストレートに見せていくのならまだこの映画はうまくまとまっていたことでしょう。

それが途中から都会側の人間と田舎の人間を交流させてお互いに歩み寄りを見せていったぐらいからまあ胡散臭くなりますね。そして最後は主人公の娘が行方不明になり、グランピング施設開発の話はどこに行ったんだよっていうストーリー展開には開いた口が塞がりませんでした。

極めつけはエセ芸術ぶった退屈なラストです。まずあのラストシーンを見てすぐに思ったのは、「ああ、このラストシーンのために作った映画なのか」っていうことです。あのラストありきでそれ以前の脚本を書いたんだなあっていうのが見え見えで興ざめしました。完全に下心ありきで優しくしてくる奴の手法なんですよ。

そこに行きつくまでに1時間40分もかけて長いフリを見せられたかと思うと、本当に怒りが収まりませんでした。言ってみれば1時間40分かけて誰かに会いに行ったのにドタキャンされたみたいな感覚ですよ。

そもそも一人一人の行動に何一つリアリティーがないから、そこに比喩とか伏線回収とかもはやどうでもいいんですよね。それぐらいすでにこっちは退屈させられてるんだから。それがやれ巧は花はあのまま心中した」だの、やれ「自然に対する敬意や畏怖だ」、やれ「あの瞬間こそが自然の摂理だ」とかまあどうでもいいわ。

そもそも花が鹿に襲われたんだとしたら、あんな鼻血ぐらいじゃ済まないし、なんで傷を負った小鹿を連れた親鹿が人間を前にしてあんなボーっと突っ立ってんだよって。っていうかなんであの瞬間、みんなボーっと突っ立ってんだよ。あんな不自然極まりないシーンを「あれは自然界が」とか言ってる奴、まじ笑えるんだけど。そもそも川崎生まれの濱口竜介が薄っぺらい知識と経験で自然語るなよ。

自分の娘の命が危ないときに「いや、待て、これこそ自然と人間のバランスを保つ瞬間で、介入してはだめだ」とか哲学かましてくる奴なんて村上春樹の小説にしか存在しないからな。ドライブ・マイ・カー」の続編かよ。

ラストが心中だろうと、自然に対するなんちゃらであろうと、もしあのシーンが空想とか夢とかじゃない限り、野生動物から父親が娘を見殺しにしたことには違いなく、そんなクソみたいなエンディングをあれこれ想像を膨らませて賞賛してる奴らの気持ちが理解できないんですよ。これは寓話で、現実の話じゃないからとかいろいろ逃げ道や言い訳の術を残してるところも腹立ちます。

複数の解釈ができるラストは嫌いじゃないんですよ。むしろ好きだけど、ただミステリアスにするためだけに抽象的な表現に止めておくやり方は嫌ですね。お願いだからこんな駄作を「落下の解剖学」とかと同列で語らないでくれ。全然、レベル違うから。

コメント

  1. シャインマスカット より:

    こんにちは。私も「銀獅子賞」に見事に騙されました。

    俳優はほぼ誰も印象に残りませんでした。辛うじて子役の少女しか印象に残らなかったです。

    BGMもカメラワークも絶望的でしたね。MV的な作りにすればエモいみたいな人は好きそうですが。

    良かったのは、中盤のコロナ給付金やグランピング施設建設のための都会と田舎の人の価値観の違い、みたいな点を取り上げたことくらいでしょうか。
    でも、それなら娘の行方不明や、都会のセールスマンの◯害など、サスペンス要素でぶつ切りで締め括るのは本当に意味不明でした。

    ラストの展開を『聖なる鹿殺し』だと解釈する意見がありましたが、だから何だろう?と。

    こういう「自称シャカイ派」作品、本当に苦手です。しかも、レビューサイトでは軒並み5段階中4以上なのも益々訳がわからない。社会問題やLGBTを入れさえすれば、「作品が深く」見えてるように錯覚してしまう、最近そんな作品が多くてガッカリします。

    今作に限らず、映画祭の審査員や映画評論家の基準と、自分の好みが合わないことが多くなり、映画を観るのが辛くなりました。

    正直、低予算のB級映画や、くだらなくて滑りまくるコメディ映画などは、レビューでは叩かれがちだったりしますが、こういう作品よりも、遥かにマシだと思いました。